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何かが違うと心が騒ぐ、しかし史実はかく語りき 

 
 
 
 
 
をぐり について探求する過程で、どうしても避けては通れないのが、藤沢のお上人のモデルでもある一遍聖人。

時宗の始祖であり、その生涯を 『遊行』 に捧げた人物。
ここ最近の私の愛読書は
『一遍聖人と聖絵(高野修・著/岩田書院)』
なのです。

「没後の事は、我が門弟におきては葬礼の儀式をととのふべからず。 野に捨ててけだものにほどこすべし。」(一遍聖絵より)

居を定めず、全てを捨て去り・・・「捨てる」と言う観念さえも捨てる

  屍は野に捨てよ。
  衆生が念仏する処を自身の跡とする。

はてさて・・・煩悩にどっぷりと浸りながら生きる私には、実践することは一生できそうにない。
何よりも女として鑑みると、捨てられる者の悲しみにばかりに囚われてしまう。
勿論、一遍の捨てるとは、そんな悲しむ心さえも捨てると言うことなのは私にも解る。

だか、理解したからと言って納得しているわけではない。
愚者である私には愛する心さえ捨て去ることはできない。
それができる者だけが聖人となり得るのだとしても、私には、できない・・・。


それは一遍を慕う人々も同様であった。

野に捨てろ と一遍が語ったその遺骸は荼毘に付され、信者達の手で丁寧に葬られた。



ある時、私は一遍についてのお詳しい方に、その疑問をお尋ねした事がある。

 「一遍自身は、それ(荼毘に付された事実)をどう思っていのでしょうか・・・もしかしたら、それさえも 『どうでも良い事』 なのでしょうか?」 と・・・

識者であるその方は、微笑を浮かべながら静かに仰った。

 「そうかもしれませんね・・・」

敢えて答えを曖昧なままにして下さったのは、その方なりの優しさ。
私のような人間には我執を捨てることはできないと、瞬時に見抜く見識を備えた方だったのだ。



私は人としてまだまだ未熟なんだなぁー。
歳だけ無駄に重ねてしまったのかもしれない。
しかし、転んでも只では起きない、未熟者なりの道を窮めよう!
・・・つぅ~事で、次回はこの話題に関連するお話for小栗でも綴ろうと思っています。


一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏に成り果てぬ

今宵は錦に彩られた夢に遊ぼう。
それは悠久の時の中、普遍の真理へと人々を導く。
現世の煩悩を暫し忘れる夢の中にこそ道は開けているはずだから・・・。
 
 
 
 
 
 

[ 2009/06/28 01:22 ] 日記 |








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